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〜あなたは大切な存在です〜
今回は、「あなたは尊い存在ですよ」というテーマでお話ししていきたいと思います。
最初に聖書の箇所をお伝えしたいと思います。
聖書の箇所はヨハネの福音書13章34節です。お読みいたします。
「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなた方は互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」
今回はこの聖書のみ言葉を通して神様から励ましを受け取りたいと思います。
まず、一つみなさんに質問して見たいと思います。
あなたにとって「幸せ」とはなんでしょうか?
どのようなときに「幸せ」を感じるでしょうか?
ある人はこう言うかもしれません。
「幸せになるにはお金が必要だよ!当たり前じゃないか!お金!お金が一番!」
またある人はこう言うでしょう。
「私は大きな家に住むことだと思うわ。だって、いまの家はボロボロで寒くて…。大きくて綺麗な家に住めることができるなら、なんて幸せなんだろうって。」
またある人は、
「やっぱり、長生きすることかな。毎日健康で長く生きることができるなら、これ以上幸せなことはないだろう。」
そして、また別の人は、
「俺は高級車が手に入った時かな。憧れの高級車に乗って、隣に美人の人を乗せて、あー考えただけで幸せって感じだね!」
さあ、みなさんはいかがでしょうか?
みなさんにとって幸せとはどのようなものでしょか?
昔、その当時の韓国の大統領夫人が同じを質問されたとき、このように答えたそうです。
「私にとっての幸せは、主人の笑顔を見ることです。」
この大統領夫人は、ご主人が日々の多忙な仕事とストレスでいつも表情を険しくしていることに、心を痛めていました。大統領夫人という地位があり、財産も十分にありましたが、一人の妻としての幸せは、夫の笑顔だったのです。
私たちが幸せと感じることはそれぞれ違いますが、物質的な幸せは、本当の幸せとは言えないと思います。何か欲しいものが手に入ったとき、その瞬間は幸せと思うかもしれませんが、しばらく時間がたつともっとそれ以上のものが欲しくなってしまいます。物質的な欲求が永遠に終わりを見ることがありません。
今回、分かち合いたい御言葉の中に「互いに愛し合いなさい」とあります。しかも、「新しい戒め」つまり「新しい守るべきルール」として互いに愛し合いなさいと教えています。
愛するとはつまり、どういうことなのでしょうか?
イギリスから日本に来られた宣教師のパトリック・マケリゴット師は愛するという行為を4つの具体的な行動として表現しています。
1つ目は、「尊敬すること」。
2つ目は「励ますこと」。
3つ目は「赦すこと」。
そして最後の4つ目は「感謝すること」です。
この4つを今回のみ言葉に当てはめて読んで見たいと思います。
まず一つ目の尊敬すること。
「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなた方は互いに尊敬し合いなさい。わたしがあなたがたを尊敬したように、そのように、あなたがたも互いに尊敬し合いなさい。」
このように読むととってもわかりやすいですよね。
次に「励ますこと」。
「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなた方は互いに励まし合いなさい。わたしがあなたがたを励ましたように、そのように、あなたがたも互いに励まし合いなさい。」
みなさんはお互いに励まし合っている人間関係があるでしょうか?
次は「赦すこと」。
「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなた方は互いに赦し合いなさい。わたしがあなたがたを赦したように、そのように、あなたがたも互いに赦し合いなさい。」
赦すことを入れるとまた違った御言葉に聞こえますね。
最後は「感謝すること」
「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなた方は互いに感謝し合いなさい。わたしがあなたがたを感謝したように、そのように、あなたがたも互いに感謝し合いなさい。」
いかがでしたでしょうか?具体的な行動に置き換えることで、このみ言葉が身近に感じてくるのではないでしょうか?
では愛するということを実行に移すために、何が必要でしょうか?
このように考える人がいるかもしれません。
「友達に感謝の気持ちを伝えるためには、まず、友人が自分にしてくれた親切なことを思い出す必要があるね。それが見つからないと感謝のしようがないよ。」
また、
「赦すためには、相手に誤ってもらわないとね。相手が何も反省していないのに、こちらから一方的に赦していたら、不公平だよ。」
他にも、
「あなたが私を愛してくれるっていうなら、こちらも愛してあげられるのにね。」
さあこれらは全て、相手が何かをしてくれたら、から始まります。
でも神様が伝えている「愛すること」は違います。
カウンセリングの先生である関根一夫師が書かれた著書「いてくれてありがとう」とういう本の中に、このようなエピソードが書かれています。
現在、関根先生はベテランのカウンセリングの先生として活躍されていますが、まだ駆け出し中、埼玉の病院で初めてセラピーを始めた時の、一番最初のセッションを忘れることができないと言います。
最初のカウンセリングということで、たくさんの資料を机の中に用意し、何を言われても対応しなければ、というプレッシャーの中で、気構えて望んだ最初のセラピーでした。そこに認知症ご主人の介護で疲労している奥様が3名来られたそうです。
最初に関根先生が挨拶しました。
「みなさんの苦労や悲しみは、私などには十分わかるはずもありませんが、ぜひ話してみてください。あるいは、何かわかることも合ってお役に立てることがあるかもしれませんから。今日は資料も用意しました。でも、まず皆さんの自己紹介をしていただきたいのです。そして患者さんの様子もお話しください。それから資料をみていきましょう。」
その言葉の中に、まるで全ての答えを知っているから、なんでも話してくださいと言ったような態度がありました。
しかし、3名の奥様の話をきき、ご主人が認知症であるがゆえの大変な苦労と絶望の数々を聞いた時、自分の用意した資料があまりにもちっぽけで表面的で、手渡すことができませんでした。
ただ、「大変でしたね。」「そうでしたか、大変でしたね。」しか言葉がありませんでした。
そしてそのカウンセリングが終わり、申し訳なさそうにして出口で見送る関根先生に、奥様たちがこう言いました。
「今日は、素晴らしい話をありがとうございました。」
また、他の奥様も
「色々話を聞かせていただいて勉強になりました。また来月お願いします。」
関根先生はびっくりしました。「大変でしたね」としか言っていないはずなのに、いや、それしか言えなかったのにと。
自分の心の辛いところを聞いてもらうことが、この奥様たちにとってどれほど嬉しく、励ましの時間となったかがわかるような言葉です。
この奥様たちにとって、関根先生がどのようなアドバイスをくれるのかが大切なのではなく、自分の悩みを聞き、受け入れてくれる関根先生の存在そのものが大切だったのです。そしてその存在を通して「私は愛されている」と感じるのです。
神様が教えている「愛すること」とはこのようなものです。
これをしてくれるから、あれができるから、愛し合うのではありません。
私たちが生きて存在していることが愛される理由です。
最後に「新聞売りの少年」というお話をしたいと思います。
話は20世紀初頭のロンドン。ある紳士の日記の中に、近くの路上で毎日新聞を売り歩く少年の話がありました。
その少年は身寄りが一人もいませんでした。
父親はその子が生まれた時に家族を捨て、母親は彼が新聞売りを始めて間もなく死んでしまいました。
街の人々はその少年のことを思い、施設を紹介したり、引き取ってくれる家族を探そうとしましたが、うまくいきませんでした。彼自身が援助を拒み、保護しようとすると逃げてしまうからでした。
「今日、何か食べたの?」
優しく声をかけてくれる老婦人に、いつも少年はこう答えます。
「おいら、自分でちゃんとやっていけるよ」
実際に少年は辛そうな表情をすることもなく、毎日せっせと新聞を売り歩いていました。でも路上で新聞を売りながら生きていくことが、小さい子供にとって過酷でないわけがありません。
ある日、一体どんなふうに暮らしているのかとこの紳士が気になり尋ねえることにしました。
その紳士は、道端で少年から新聞を買うと、余分にコインを握らせてわきに呼び、今どこに住んでいるのかと尋ねました。
少年はテムズ河のそばにある貧困層が密集して住んでいる地区の名前をあげ、そこにある小さな小屋で暮らしていると答えました。
「一人で住んでいるのかね。それともだれかと一緒なのかね。」
「おいらのダチのジムがいるよ。あいつは足が不自由だから、稼ぎがないんだ。」
自分の分だけなく、収入の全くないもう一人の食い扶持のためにも働いていると知って、彼はおどろきました。
「そいつがいない方が楽なんじゃないか?」
すると少年が怒ってこう答えたそうです。
「とんでもねぇ!相棒がいなかったらやっていけないよ。家に戻って誰もいないなんて。
それに、おいら、稼ぎを分けてやる奴がいない暮らしなんて、まっぴらだよ!」
この少年にとって、友人のジムの存在こそが大切なのです。何かできるからではありません。
他の人に比べたら、自分は何もできない人だと感じた経験はありますか?
能力もなく、学力もなく、なんの役にも立っていないと思えるときがあるかもしれません。
でも、神様は私たちをそのような見方では見ていません。私たちがいきて存在していることが何より嬉しいのです。
イザヤ書43章4節にこのようにあります。
「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」
私たちは神様の目で見るなら高価で尊いのです。
今回の御言葉は「互いに愛し合いなさい。」という御言葉です。
私たちが愛し合うために必要な理由はただ一つ「あなたがいてくれる」ということです。お互いを尊い存在と認める時、そこに愛し合う関係が生まれます。
愛するということは「尊敬すること」であり、「励ますこと」であり、また、赦すこと」であり、「感謝すること」です。
みなさんの周りにまだ、愛を表すことができていない方がいますか?
ぜひ愛を実践してみてください。
神様はあなたを尊敬し、励まし、赦し、感謝してくださいます。
誰よりもあなたのことを愛してくださっています。それはあなたの存在が大切だからです。
もし、あなたがまだ、神様の愛を受け取っていないのでしたら、今、受け取ってください。神様はあなたをそのままで愛してくださいます。
あなたは愛されるために生まれてきました。それを忘れないでください。
お聞きの皆さんに神様の豊かな祝福と恵が注がれますようにお祈りしています。
神様の祝福がありますように!