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〜比較しない人生〜
今回は、「比較しない人生」というテーマでお話ししていきたいと思います。
私には中学生時代に一人の大親友がいました。彼とはいつも一緒の時間を過ごし、お互いを認め合った関係でした。大人になったいまでも、フェイスブックでお互いの投稿にコメントしながら、近況を報告しあっています。
そんなある時、彼が整体師となって、自分のお店を開店し、とても充実した生活を送っている様子をフェイスブックの投稿で知りました。
その時、私はふと「彼はとっても充実しているのに、俺は一体何をしているのだろう?」と思ってしまったのです。というのも現在、私は3人の子供達のホームスクーリングをしているので、妻がフルタイムで仕事をしてくれています。普段は家で子供達に勉強を教え、週に1回介護施設の夜勤の仕事をするという生活スタイルです。ですから、男として家族の生計を支え、立派な自分の店を持っている彼と自分を比較して、そのように思ってしまったのです。誤解しないで欲しいのですが、私は決して今の生活に不満があるわけではありません。この生活スタイルは妻と十分話し合い、祈って決定したことですし、3人の子供たちをホームスクーリングするというとても重要な役割にやりがいもあります。経済的に困窮しているわけでもないし、日々神様とのつながりの中で、恵いっぱいの生活をしています。
しかし、それでも彼の生活を見た瞬間、自分の生活と比較して、何かわかりませんが、自分が持っていないものを見つけて、「いいな〜。自分にはないものを持っていて。」と考えてしまいました。もちろん、すぐに冷静になって比較する思いは無くなりましたが、気をつけていなければ、いつでも「比較する思い」がやっていることを、ことときに学びました。
人はなぜ、比較してしまうのでしょうか?
聖書を見てみると、実は人類の最初の家族から、早速比較が始まっていることがわかります。それどころか、比較から妬みになり、最後には殺人を犯すというところにまで至っています。皆さんお分かりのように、それはカインとアベルの兄弟です。カインはアベルの捧げ物を認められたのに対し、自分の捧げ物が認められないことに嫉妬しました。比較してしまったのです。そして、俺より認められるなんて赦せない!と考えてしまったのです。
人が比較する動機は様々だと思いますが、結局のところ、「自分は相手と比べて上なの?下なの?」という答えを探しています。つまり、比べる相手をゼロのラインとして、自分がどちらのポジションにいるかを知りたいという願望があるということです。
また、自分自身のアイデンティティーが確かなものになっていなければ、「私は何者なのか」がわからないので、とにかくなんでもいいから基準を見つけて、その基準に自分を当てはめて、「自分は何者なのか」と理解したいと思ってしまうのです。
そして、「ああ、自分はこんな人間なんだ。」ということを比較によって答えを導き出そうとするのです。
ルカによる福音書の18章10節から14節にイエス様のたとえ話があるので紹介したいと思います。
「ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。私は週に二度断食し、自分の受けるものは皆、その十分の一をささげております。』 ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようとせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』 」
このパリサイ人が、自分がどのような存在かを示すために使った比較対象は同じ場所で一緒に祈っていた取税人でした。そして、この取税人の悪いところ、弱いところを基準にして「私はすごいことをしていますよ!いい人ですよ!」という結論を出してしまいます。逆に、取税人の方は、基準が神様の視点なので、「私は罪人です!」と告白し、赦しを願う祈りとなりました。
このように私たちは基準を間違えてしまうと、自分はどのようなものかを間違えて理解してしまいます。もし、比較する相手が火のうちどころのないような素晴らしい人格の持ち主であったならば、ダメな自分を見つめて「俺は何にもできないダメなやつだ。」と自己憐憫になってしまいますし、逆に自分より劣っている人と比較するならば、「俺はすごい!なんでもできる!あいつはほんと何にもできないもんな!」と高慢になっていまいます。正確に0に針を合わせてから計測しないと、正しい重さを導き出せないはかりと同様に、私たちの基準の針を、私たち自身を創造された神様の視点に合わせてから、自分自身を探る方法を取らなければ、本当の自分を見つけることはできません。
このような教えをすると、「えーでも全部を比較しないで生きていくなんて、そんなことできるわけがない!」と思うかもしれません。もちろん、全ての面で比較してはいけないとは言いません。比較していいことだってあります。何かわかりますか?例えば買い物です。
皆さんが何か品物を購入するときは、できるだけ良いもの、そして安いもの、長持ちしそうなものを選びたいと考えると思います。そのためには、同じような商品を比較する必要があります。現代のネット社会では、ネットショッピングの需要が右肩上がりです。理由は、商品の品数もさることながら、一つの品物を選択するときに、より良いもの、より安いものを比較しやすいからです。そのように比較した結果一番良いと思ったものを私たちは購入します。
このように比較するのは問題ありませんね。なぜでしょうか?それは対象が「物」だからです。しかし、これを「人」に置き換えてはいけません。当然のことですが、「人」は「物」ではありません。
創世記1章で神様は最後に人間を創造され、「それは非常に良かった」と語られています。私たちは非常によい者として創造されました。私たちは神様が良いものとして作られ、一人一人がオリジナルでユニークな存在です。ですから、全く違うオリジナルの人同士で比較して、上下関係を生み出そうというのはもともとナンセンスなことです。
イエス様と共に過ごし、数々の教えや神の国の文化を身を持って学び、奇跡と癒しを見てきた弟子たちですら、お互いを比較して、どちらが上か下かを論じ合っていました。そのことがマルコによる福音書の9章33節から34節に書かれています。イエス様が弟子たちに「道で何を論じ合っていたのですか?」と聞かれた時、弟子たちは黙ってしまいます。その論じ合っていた内容とは「我々弟子たちの中で誰が一番偉いか」というものでした。比較することはナンセンスだとわかっていても比較してしまう。私たちにこの「比較」という罠に引っかからない方法ないのでしょうか?
今回、比較に対抗する一つの具体案を提案したいと思います。
それは「相手と比較する」から、「相手を目標にする」に変換するという方法です。
もし、誰かと比較しそうになったとき、その相手を自分の目標とするのです。
先ほどもお伝えした通り、比較することによって、ダメな自分を見つけると、自分はダメだーと自己憐憫に陥り、相手より優れているところを見つけると、自分はすごい!と高慢な心が生まれてしまいます。しかし、相手を「目標」とするならば、自分の足りないところを見つけて、どうすれば、改善できるか、そしてどのようにしたらその目標に達することができるかを考え始めます。また、目標より優れているところが自分にあると見つけたならば、別の新しい目標へとすぐにシフトチェンジできます。
皆さん、ぜひ「比較」から「目標」へ切り替えてみてはどうでしょうか。
神様は私たちに「そのままでいいんだよ!」「比較しなくていいんだよ!」と語ってくれます。なぜなら、神様は私たちをありのままで愛してくださっているからです。自分がどのような存在か、どのようなポジションにいるのかを、基準のない比較で見つけることはできません。だからと言って「あーそうか。じゃ何もしなくていいだ」ということではありませんので注意してくださいね。親が子供たちの成長を願うように、神様も私たち一人一人の成長を願っています。しかし、その動機は比較からではなく、神様を愛し、隣人を愛する心からです。
最後に一つの実話をお伝えして終わりたいと思います。
「ミス青森」に選ばれた女性がいました。この女性は青森県の女性の中で、最も美しい女性として認められ、自分の務める会社や周りの人々から、脚光を浴びていました。しかし、そのことを面白く思わない会社の同僚の女性が、彼女に嫉妬して硫酸を手に入れ、彼女の顔にかけてしまいました。彼女は顔にひどいやけどをおい、「ミス青森」とは程遠い、醜い容姿にかわり果ててしまいました。彼女はすっかり生きる気力を失い、自殺を考え、電車に飛び込むために、線路にいきます。ところが、自殺しようとしたそのとき、ふと、昔教会の日曜学校に行っていたことを思い出し、どうせ死ぬなら、最後に教会を訪ねてからにしようと決めて、教会にいきました。牧師からイエスキリストの福音を聞いているうちに、人生に対する価値観が変わり、自殺するのを思いとどまりました。そして、今まで自分が美しいと思っていたことは、だた、他の人と比較して自分自身を評価していたにすぎないことに気がつき、また、美しさとは裏腹に、心の中が汚れていたことを悔い改めました。そして、イエス様の十字架の死が私のためであったことを受けとり、イエス様を個人的な救い主として受け入れたのです。
そんなある日のことでした。彼女は偶然、街で硫酸をかけた女性に出会ったのです。その女性は黙って下を向いたまま、たくさんの罵声を浴びる覚悟していました。ところがそのミス青森は、彼女の両手をとって、笑顔で「ありがとう」と言ったのです。「えっ?なんて言ったの?」と女性は驚きました。ミス青森はこう説明します。「あなたが、私の顔をめちゃめちゃにしなかったら、私はいつまでも、外側の美しさだけを誇り、比較しながら生きていたことでしょう。顔は醜くなりました。でも今心の中は雪よりも白くされたの。だから「ありがとう」と言ったのです。」
彼女は思いもよらない言葉にびっくりして、彼女に心から謝り、お互いに和解できました。
私たちは比較によって、自分の価値を決定し、ある時には高慢になり、ある時には絶望します。でもそれは本当の自分ではありません。
本当の自分を知る唯一の方法は、私たちを作られた神様から教えてもらうことです。神様だけが、私たちの本当の価値をご存知です。聖書はこう言っています。
「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」
皆さんは高価で尊い存在です。比較する必要はありません。皆さんが神様を愛し、隣びとを愛するために日々成長していくことを願い祈っています。
神様の祝福が豊かにありますように。