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〜心の手入れ〜
今回は、「心の手入れ」というテーマでお話ししていきたいと思います。
皆さんは「手入れをする」という言葉を聞くとどのような印象を持つでしょうか?なんか面倒臭い、大変だ、のようなイメージを持つ人は少なくないと思います。
実際に使う言葉としては「肌を手入れする」とか、「畑を手入れする」と言った表現がありますが、何か継続して続けなくてはいけない根気がいる作業というイメージがありますよね。
農作物を育てる時、この畑を手入れするという作業はとても大切な仕事の一つです。畑を日々手入れしていかなければ、良い作物を育てることができません。手入れを怠ってしまったばかりに枯れてしまうこともあるでしょう。逆にしっかりと手入れしていれば、その分多く収穫することができたり、質の良い作物を作ることができたりします。
同じように私たちの心も手入れする必要があります。
心を手入れすることを怠ってしまったら、いつの間にか心から喜びや楽しみがなくなり、枯れた心になってしまいます。
聖書のルカによる福音書8章5節から8節には、イエス様が伝えた有名な例え話の一つ「4つの土地に植えられた種」の記述があります。
「種を蒔く人が種蒔きに出かけた。蒔いているとき、道ばたに落ちた種があった。すると、人に踏みつけられ、空の鳥がそれを食べてしまった。また、別の種は岩の上に落ち、生え出たが、水分がなかったので、枯れてしまった。また、別の種はいばらの真中に落ちた。ところが、いばらもいっしょに生え出て、それを押しふさいでしまった。また、別の種は良い地に落ち、生え出て、百倍の実を結んだ。」
この御言葉に出てくる土地は「道ばた」「岩の上」「いばら」「良い地」、この4つです。この中で手入れされている土地は、良い地であることは誰でもわかると思います。手入れされた土地に植えられた種は100倍の実を結ぶと聖書は伝えています。
昔、私がボランティアで道路の袖にあるスペースを花壇にするという活動のお手伝いをした時のことです。ボランティアのリーダーから、「今回は、この雑草だらけの場所を、綺麗な花を植えることができる花壇にする計画です。今日の作業はまずこの雑草を取り除くことです。よろしくお願いします。」
と伝えられました。
早速、腰を下ろして、雑草を取り除く作業から取り掛かりました。ある程度雑草を取りぞくと、大きな石がゴロゴロ転がっているのがわかりました。私は、こんなに石がいっぱいあるのに、雑草は育つんだなぁと思いました。
1日かけて、山になるほどの雑草を抜き、大きな石を取り除きました。見た目もスッキリして、これで、来週の作業の時には、花の種植えになると思いました。
1週間後にもう一度、先週作業した場所に行ってみると、あれほど頑張って取った雑草や石ころがいたるところに見られました。雑草はともかく、石がなんでこんなにあるのだろうかと不思議に思いました。ボランティアのリーダーの方にこの石ころはどこから湧いて出てきたのかと聞いてみると、
「表面的には綺麗になっていても、少し掘ると石はいっぱい入っているんですよ。手をつけていない場所ですからね。石以外にもいろんなものが埋まってますよ、きっと。」
と笑いながら答えてくれました。
そして、この日の作業も1日石ころ取りと雑草取りの作業で終了しました。
翌週も、その次の週も、石ころはなくなることなく、湧き出ていて、石取り作業は続きました。
しかし、私は徐々に花壇に変化が出てきたことに気がつきました。土がフカフカになってきているのです。最初に歩いていた頃よりも、足が土の中に埋まって行くのを感じました。取り除いている石の量も少なくなっていきました。そして、最初に作業してから3ヶ月後にようやく種を植えることができました。
今回の聖書の箇所にある4つの種類の土地のうち、唯一手入れされているのが、「良い地」です。この「良い地」は自動的にはできません。どの土地も最初は一緒の土地でした。もし、「このくらいの雑草や石ころはしょうがない。そのままでいいや」となってしまっていたら、「道ばた」や「岩の上」や「イバラ」となっていってしまいます。
さて、私がお手伝いさせていただいた花壇は綺麗な花をつけました。しかし、その花の周りをみると、また、雑草が生えていました。花を咲かせてからも良い地を維持するためには手入れが必要なのです。
私たちは御言葉を通して成長していきます。教会の礼拝や交わりの中で、また、日々のデボーションによって、時には断食して聖霊の豊かな臨在に触れることによって、私たちは恵みを体験し、成長します。
しかし、時々、成長していないと感じる時があるかもしれません。何か教会に行くことが億劫になっていたり、賛美やメッセージが心に響かなかったりする時があります。忙しくて、聖書を読むことが面倒になってしまうこともあるでしょう。
そんな時、私たちはなんとか成長しなければと考え、セミナーに出てみたり、奉仕をがむしゃらに頑張ってみたりと、自分でなんとかしようとしますがうまくいきません。
ある宣教師がこんな話をしてくれました。
小学校のあるクラスで一人一人朝顔のたねを植えて育てるという理科の授業がありました。先生が生徒たちにこう伝えます。
「種を植えたら、毎日水をあげましょう。もし、雑草が生えてきたら、取ってあげてくださいね。誰が一番大きくて綺麗な花を咲かせることができるか、楽しみですね。」
そこに一人の男の子がいました。彼は心の中でこう思いました。
「僕が一番、おっきくて綺麗な花を咲かせるんだ!」
そう決意した男の子は毎日欠かさず水をあげて、少しでも雑草が生えてきたら、すぐに抜いてあげました。そして、他の友達の朝顔がどうなっているのかも欠かさずチェックしていました。
頑張って手入れした成果もあって、その男の子の朝顔が一番最初に小さな芽を出しました。男の子は大喜びで、自慢げに周りのお友達に小さな芽を見せて回りました。
さて、他のお友達の朝顔も徐々に芽を出し始め、クラスのベランダにおいてある朝顔のプランターは賑やかになってきました。
そんなある日の夕方、先生が廊下を歩きながらふと教室をみると、下校時刻がすぎているのに、その男の子が一人で椅子に座って机に頭を伏せているの見つけました。
教室に入り、男の子に尋ねました。
「どうしたの?身体がだるいの?大丈夫?」
よく見ると、男の子は泣いていました。
「先生…、僕の朝顔が枯れちゃった…。」
「え?本当?だって、あなたが一番大切に朝顔を育てているのを先生は知っているよ。いつもベランダに出て、水をあげたりして、手入れしているのを見てたし。」
男の子はしばらく、うつむいていましたが、ゆっくり話し始めました。
「先生、あのね。ちょっと前から、僕の朝顔だけ、なかなか大きくならなかったの。みんなのはどんどん大きくなっていって。どうしようって考えて、それでね。みんなの朝顔と同じ高さになるようにって、芽を引っ張ったんだ。」
私たちは、問題が起こると、なんとか自分の力で頑張ってみようともがきます。でも、方法を間違えてしまったら、かえって状況が悪くなってしまうことがあります。
第1コリント3章7節にこのような御言葉があります。
「それで、たいせつなのは、植える者でも水を注ぐ者でもありません。成長させてくださる神なのです。」
神様が私たちを成長させてくださいます。私たちがやるべきことは、その成長を妨げている石ころや雑草を取り除き、心の手入れをしていくことです。
皆さんの心は今、どの土地の状態でしょうか?
道ばたのように固くなった土地でしょうか?
道ばたというのは、人々が歩いて踏み固まったところです。中に埋まっているものは表面に出てくることなく、ずっと埋まったまま。どのようなものが埋まっているかわかりません。そのような人は、まず、何が埋まっているかを確かめなければなりません。信頼のおけるカウンセラーにもらうのは、一つの良い方法だと思います。
ある人は岩の上とあるようように、石ころだらけの土地かもしれません。
石ころには大きなものや小さなものまで大きさが様々ですが、まずは小さいものから取り除いていましょう。石ころとは、いわば神様との繋がりを邪魔するものです。日々の生活スタイルを確認して見ましょう。邪魔しているものはありませんか。スマホを見る時間を少し減らして、その時間を聖書を読む時間や家族と会話する時間に当てるというのはどうでしょうか?
また、ある人はイバラのような、雑草だらけで、神様の光が届かない土地かもしれません。前回の「心の根っこ」というテーマでお話しさせていただいたように、雑草を取り除くには根っこを抜く必要があります。深い根であればあるほど、抜く作業は大変です。昔、誰かに心を傷つけられたり、苦い思いをしたことをそのままの状態で蓋をしていませんか?傷ついた根っこを取り除くために、一緒に祈ってもらう方を是非紹介してもらってください。
心の手入れは、根気が必要ですが、続けることで、必ず変化が見られると思います。気がつくと、土がフカフカになっているように、心がやわらなくなっている自分に気がつくと思います。今までイライラしていたことが、気にならなくなったり、祈ることが習慣になっていたり、また、何気ないことに感謝できるようになったり。
第1テサロニケ5章16−18節に、
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。全てのことについて感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神様があなたに望んでおられることです。」
とあります。心の手入れをしていくことで、私たちはどんどん神様が望んでおられる姿へと変えられていきます。成長させてくださる神様に信頼して、日々心の手入れをしていきましょう。
皆様に神様の祝福が豊かにありますように。